徒然草 現代語訳の現代語訳(1)
第一段 この世界に生まれたからには
さてと、この世界に生まれたからには願うことも多いだろう。
でも流石に「天皇になりたい!」ってのはムリゲーなわけ。
だってあいつら神の末裔だぜ?ヤバすぎ
摂政とか関白もまあヤバい。
それより下の官僚でも、ボディーガードとか付けてるのは立派。
そいつらの場合、もし没落しても、子や孫くらいまではやっぱ何かが違うわけよ。
ただね、今まで挙げた奴らより下ともなると、まあ底辺。
中には運よく成りあがってイキる奴もいるが、そいつらマジでしょうもない。
法師とか最悪。清少納言が「坊さんはクソ」とか言ってたけど、本当にその通り。
なんかイキって有名になるやつもいるが、そいつらもしょうもないよ。
増賀とかいう偉い坊さんが言うには
「有名になると煩悩が生まれる。それって仏の教えにも矛盾してね?」
とのこと。結論、ニートが一番幸せ。世の中と関わらないのが一番いいよ。
やっぱ人として生まれたからにはイケメンに生まれたい。
そのうえ、話のうまい奴は最高。ずっと向き合っていたい。
ただ、こいつスゲーと思った奴の本性がクソだった時のがっかり感は異常。
身分とか顔面は変えようがないけど、内面は努力すりゃ変わるだろ?
だから、たとえイケメンで性格よくても、教養のない奴は馬鹿にされるわな。
まあ、最低でも正しい学識と漢詩・和歌・楽器の才能は欲しい。
くわえて、礼儀とかで人の見本になれれば大したもんだ。
字が下手なのはダメ。あとイケボで歌が上手く、酒が飲めるのも男として重要。
徒然草 現代語訳の現代語訳(序)
序文 つれづれなるままに
ヒマだ。何か書こう。こういう時、心に浮かんでくることをテキトーに綴ると妙に可笑しな気分になる。
平成VS昭和
元号が変わることもあって、平成史に関する議論が盛んになっている。平成という時代とよく比較されるのは昭和である。テレビ番組では平成世代と昭和世代がクイズや議論で対決するようなスタイルも多い。さて、私は平成生まれの若輩者で昭和がどのような時代だったを肌で感じたわけではない。しかし、少し思うところがあったので書こうと思う。
父親やテレビの昭和俳優がしばしば「昭和は良かった」とごちているのを聞く。これはもちろん、平成と比べてという枕詞がつくのだろう。ここで私の意見を明示すると、「平成の方が良かったに決まっている。」
思うに、昭和が良いという人々は昭和の良い面ばかりを見る一方で、平成の悪い面ばかりを見ているのではないか。昭和はまず戦争があった。太平洋戦争では多数の民間人を含む300万人以上に日本人が殺された。戦争で苦しんだ人の数は計り知れない。ただこれだけで、昭和という時代は平成に勝てないと思う。昭和俳優のいう「昭和」に戦争の歴史は含まれているのだろうか?彼らはこういう昭和の負の面を切り捨て、経済成長という側面のみを見ているように思えてならないのだ。
戦争を抜きにしても昭和という時代は良いとは思えない。客観的に見て、昭和という時代は平成に比べて、衛生・モラルといった側面で大きく劣っている。驚いたことに、電車内でタバコを吸えたということではないか。新宿は今よりもずっと汚らしく、学校では体罰があふれていたという。もちろん現在の体罰への過剰なまでの反応を良いとは思わないが、体罰を是とする社会を良いとも思わない。不良や暴力も多かったというし、飲酒に関するマナーも今よりも緩かったという。政治に関しても、国語の先生に聞いた話では、今よりもずっと汚職が横行していたという。
確かに平成という時代、日本は経済成長を終えた。先の見えない不況が続いた。しかし、それでもGDPは3位であり、一人当たりでみても25位あたりである。世界の平均と比べて決して悪い数字ではない。そして、なによりも平成は平和であった。もちろん、イラク戦争やソマリアなどに多少の自衛隊派遣はあったが、日本全体が巻き込まれる戦争は起きなかった。これだけでも昭和を上回ったといえる。加えて、衛生やモラルの面で平成は大きく進歩した。まだまだ不十分な部分が多いが、暴力にはいっそう厳しくなったし、酒・タバコといった人間に害をなすものへの風当たりも強くなった。これをつまらない、寂しいなどという人がいるが、なによりも優先すべきは健康と安全なのは明白である。政治もまだまだ汚職は見られるが、昭和に比べてマシになったという。新宿の街並みもずっときれいになったという。もしかしたら、平成という時代は日本国開闢以来でもっとも素晴らしい時代であったかもしれない。格差はまだまだ多いとはいえど、餓死者はほとんどいないという。平和でかつ食料に困らないというのは奇跡のような状態である。対外的に平和であった江戸時代は多くの農民が飢餓に苦しんでいた。食料生産の安定した大正・昭和は戦争があった。終始一貫して平和・飽食を満たしたのは平成だけだろう。
結局、平成を貶すものは、ただ「経済成長」の一点のみを見ているのだ。つまり、彼らにとって大切なのは平和ではなく「お金儲け」なのだ。そう思わずして、どうして昭和が平成よりも良いと言えるのか。
史記 伯夷列伝(一) 要約
史記列伝の最初は伯夷・叔斉のお話です。漢文で約八百字の列伝ですが、伯夷・叔斉のエピソードはその1/4に過ぎず、多くは司馬遷の考察や意見に割かれており、彼が『史記』を書いた理由が表現されています。
(一)
殷の末期、君主であった紂王は酒池肉林の放蕩や暴政を行い、国は大いに乱れていました。そんな殷の中にある孤竹国という郡に兄弟がいました。長男が伯夷で、三男が叔斉です。領主であった父親は三男の叔斉に跡を継がせたいと思っていました。しかし当時、家は長男が継ぐのが原則であり、三男である叔斉が継ぐのは異例でした。
(ニ)
父親が死んで、いざ跡を継ぐことになって叔斉は原則通り長男の伯夷に跡継ぎの位を譲ろうとします。しかし、伯夷はそれを断ります。なぜなら、叔斉が継ぐことは亡き父親の遺志であったからです。当時、息子が父親の意見に反抗するというのはタブーでした。結局、二人はどちらも位を継ぐことを放棄し、間の次男に跡を継がせます。そして二人は国を飛び出してして、放浪を始めます。
(三)
放浪の中、二人は姫昌という諸侯が浪人を大事に養ってくれると聞きつけます。姫昌は西伯昌とも呼ばれ、西方の諸侯を束ねる存在でした。そこで二人は彼のもと行って身を寄せようと考えたわけですが、二人が到着してまもなく姫昌は亡くなってしまいます。
(四)
姫昌の息子は姫発という名前で、武王として知られます。武王は暴政を働く紂王の討伐を決意します。このとき武王は馬車を用意し、そこに亡き父(姫昌)の位牌を載せるという行動をします。これは紂王を討伐するのは父の遺志であることを明示し、討伐の大義名分にするためです。さて武王がいざ進軍しようというときに、伯夷と叔斉はそれを止めようとします。曰く、「父親の葬儀がまだ終わってないのに、行動を起こすのは『孝』とはいえない。臣下でありながら、君主に反抗するのは『仁』とはいえない。」と。実は武王が決起したのは父親の姫昌が死んでから間もないことで葬儀も終わっておらず、殷の中の諸侯であった武王は立場上、殷王である紂王と君主-臣下の関係にあったのです。しかし、伯夷・叔斉とて所詮は居候の身。武王の側近の兵士はうるさい二人を殺してしまおうとします。それを止めたのが太公望呂尚です。彼は姫昌の時代から側近だった人物で、武王にも重用されていました。彼曰く「この二人を殺してはなりません。彼らは義人です。」と。この義人は様々な意味がありますが、ざっくり言えば「正しい人」という意味です。こうして伯夷と叔斉は一命をとりとめたのでした。
(五)
しばらく経って、武王は決起し、紂王を倒します。こうして殷は滅び、新たに周という国が誕生します。しかし、先にも言ったように、伯夷・叔斉の二人は武王による紂王の討伐を非難していたわけですから納得がいきません。二人は周に仕えることを恥だと考えます。そこで周という国を捨てて、首陽山という山に立てこもります。そこでワラビを採って食いつないでいくのですが、やがてワラビもなくなり、サバイバルの知識もない二人は餓死しそうになってしまいます。もう餓死寸前というところで、伯夷は詩を作ります。
西山に登り 采薇をとる
暴を以て暴に易え その非を知らぬ
神農・虞・夏忽焉として没す 我いずくにか適帰せん
于嗟徂かん 命の衰えたるかな
首陽山に登り ワラビで生をつないでいる
武王は暴力を用いて、紂王の暴政に取って代わり その過ちに気が付かない
神農・帝舜・夏の兎王のような有徳の人はもういない 私はどこに行って身を寄せればよいのか
いっそ死んでしまおう 天命は衰えたものだ
この詩を作ったのち、まもなく二人は餓死してしまうのでした。
(あとがき)
伯夷の詩にある神農・帝舜・夏の兎王というのはみんな禅譲(先代の君主から有徳な人物へと位が譲られることで理想とされた)を受けた人物で、伯夷・叔斉の理想でした。禅譲の対義語を放伐といい、武力で無理に王位を奪うことで、武王はまさにこれにあたります。伯夷と叔斉は共に当時正しいとされた行いをして、最終的には餓死してしまいました。これについて孔子は「彼らは正しさを求めて、それを達成できたのだから思い残すことはないだろう。」という見解を述べます。しかし、作者の司馬遷にはどうもこの言葉がひっかかります。なぜなら、伯夷の詩を見てみると、彼らの無念の声がひしひしと伝わってくるからです。彼らが未練なく世を去ったということは到底信じられません。「天は正しい者の味方をする」と言いますが、正しいことをしたのにひどい目にあうという例はいくらでもあります。伯夷と叔斉は正しい行いをして、餓死してしまいました。孔子の弟子であった顔回は、孔子から最も高く評価されたのに貧しいまま亡くなりました。一方で、大盗賊で人肉を食べていた盗跖は天寿を全うしました。そして、司馬遷自身も友人を庇って、皇帝の怒りを買いました。このような状況に司馬遷は戸惑いを隠せません。そして、彼は次のような疑問を抱きます。
「天道、是か非か」
これは直訳すると「天の意志は正しいのかそうでないのか。」という意味になります。つまり、「天は正しい者に報いるのか」ということです。司馬遷にとっての最大の遺憾事は、歴史に名が残らないことです。生きている間に報われずとも、歴史に名を残し、後世で評価されれば、ある程度報われたと考えます。先にも示したように、伯夷と叔斉は後に孔子によって言及されます。その見解がどうであれ、これによって彼らの名は後世に残り、清廉の士の手本として尊敬を集めました。しかし逆に言えば、もし孔子が彼らについて言及しなければ、彼らの名は残らなかったでしょう。歴史に名を残すには、孔子のようなスゴイ人の目に留まる必要があるのです。だからこそ、司馬遷は歴史に名を残せるかどうかは運次第であると考えます。報われるには歴史に名を残す必要があり、歴史に名を残すには運が必要である。当然、大体の人は歴史に名を残すことはできません。司馬遷はそれをとても悲しいことだとします。そして、こう言いきります。
ー余、甚だ惑う。もしくはいわゆる天道、是か非か。
ここまで見てきて分かるように、「天道、是か非か」という問に対して、司馬遷はどちらかといえば非の立場です。彼は歴史書を著すことで、後世に評価を委ねようとします。これによって、報われる「可能性」を残したのです。「天道、是か非か」という問いへの答えを求め続けた彼が最後にたどりついた結論が、歴史書の著述だったというわけです。こうして書かれたのが『史記』であり、伯夷列伝はその根本にあるといえるでしょう。
サッカーと個人主義
サッカーの競技人口は2億人を超えるという。かたや野球は3000万人程度である。この理由としては、サッカーというスポーツの持つ強靭な普遍性が挙げられるといわれる。ボール一つでできることや、オフサイドを除けばルールが比較的簡単なこと、また人数の変化にも柔軟に対応できる。野球はたとえバットやボールが用意できても、18人のプレイヤーがそろわない限り守備に穴が開いてしまうし、逆に18人を超えると「控え」が生じてしまう。サッカーはたとえ人数が5~6人でも、22人を超えていても、規模を変えることで対応可能である。空き地で子供たちが遊ぶ上で、この柔軟さは大切であり、それは競技の普及と直結するだろう。
さて、競技人口の面でサッカーは野球を大きく上回るわけだが、例外的な国が二つ存在する。それが日本とアメリカである。もっとも、それも昔のことで最近では日本国内でもサッカーの競技人口が野球を上回ったということだが、それでもプロ野球や高校野球など、日本国内における野球人気は根強いものがある。今日はこの理由を考えてみたいと思う。
サッカーは攻撃と守備の境界が曖昧であることが多い。さっきまで攻撃を行っていた選手が、チームのピンチに際して守備を行うことはざらだし、攻撃的サイドバックなんて言葉も存在する。試合中、サッカー選手は常に頭を動かして、攻撃の時でも守備のことを頭の片隅に置き、守備の時もカウンターを念頭に置くのである。一方で野球において攻撃と守備は厳格に分けられている。攻撃の回は攻撃のことだけを考え、守備の回は守備のことだけを考えればよいのだ。また、どのスポーツも勝利するためには得点が必要である。サッカーにおいて得点するためには、自ら攻撃の機会をつかもうと動かなくてはならない。メッシだろうがスアレスだろうが、シュートを放つためには、良い位置でボールを受けるなり、ドリブルで敵陣を突破するなりしなくてはならない。従って、彼らは試合中、常に積極的に貪欲にボールに触れようとするのだ。サッカーの場合、選手は頑張って攻撃の機会を作り出し、そのうえで機会をモノにしなくてはならないのである。一方で野球は少し毛色が違う。というのも、野球において攻撃の機会は自動的に与えられるからだ。どの選手にも1試合当たり3~4回の打順が回ってくる。機会は常に与えられており、それを生かせるかどうかは選手次第なのだ。そう考えると、どうも野球というのは「集中」のスポーツのように見える。攻撃のときは頭を攻撃に集中し、守備の時は守備に集中する。機会は与えられており、それを生かすことだけに集中する。この「集中」という原理が野球の軸にあるのだ。一方でサッカーは「分散」のスポーツであろう。攻撃の時は常に守備のことも片隅で考え、守備の時は攻撃も念頭に置く。機会を作ったうえで、それを生かさなければならない。これらは「分散」の原理の下で動いているといえるだろう。
さて、野球が日本人に受けた理由だが、この「集中」の原理が大きく作用したものと思われる。ステレオタイプな意見だが、多くの場合、日本人は我が強いのを美徳としない。チャンスに向かって、積極的にボールへ向かうことは、サッカーを受容した時代の日本人にとって「我が強い」と映ったのではないだろうか。
さらに言えば、ユニフォームの服装にも理由が隠れているように思われる。基本的に長ズボンで行われる野球に対し、サッカーは短パンで行われる。日本において、男性だろうが女性だろうが肌を多く見せることは「ふしだら」であった。少なくとも戦後まもない頃は。当時の日本人にとって、短パンでプレイするサッカーは「ふしだら」なスポーツにも見えたのだろう。その後、次第に個人主義の風潮が強まるのと時を同じくして、Jリーグが始まり、サッカーを好む日本人が増えた。これは「我が強いこと」や「短パンの着用」が個人主義の下で許容されるようになった流れなのかもしれない。