嫌好の日記

心に思い浮かぶことを、ろくに本も読まずに書いた雑記帳です。従って、たいそう訳の分からないことも多いでしょうが、暖かい目で見てやってください。

サッカーと個人主義

 サッカーの競技人口は2億人を超えるという。かたや野球は3000万人程度である。この理由としては、サッカーというスポーツの持つ強靭な普遍性が挙げられるといわれる。ボール一つでできることや、オフサイドを除けばルールが比較的簡単なこと、また人数の変化にも柔軟に対応できる。野球はたとえバットやボールが用意できても、18人のプレイヤーがそろわない限り守備に穴が開いてしまうし、逆に18人を超えると「控え」が生じてしまう。サッカーはたとえ人数が5~6人でも、22人を超えていても、規模を変えることで対応可能である。空き地で子供たちが遊ぶ上で、この柔軟さは大切であり、それは競技の普及と直結するだろう。

 

 さて、競技人口の面でサッカーは野球を大きく上回るわけだが、例外的な国が二つ存在する。それが日本とアメリカである。もっとも、それも昔のことで最近では日本国内でもサッカーの競技人口が野球を上回ったということだが、それでもプロ野球高校野球など、日本国内における野球人気は根強いものがある。今日はこの理由を考えてみたいと思う。

 

 サッカーは攻撃と守備の境界が曖昧であることが多い。さっきまで攻撃を行っていた選手が、チームのピンチに際して守備を行うことはざらだし、攻撃的サイドバックなんて言葉も存在する。試合中、サッカー選手は常に頭を動かして、攻撃の時でも守備のことを頭の片隅に置き、守備の時もカウンターを念頭に置くのである。一方で野球において攻撃と守備は厳格に分けられている。攻撃の回は攻撃のことだけを考え、守備の回は守備のことだけを考えればよいのだ。また、どのスポーツも勝利するためには得点が必要である。サッカーにおいて得点するためには、自ら攻撃の機会をつかもうと動かなくてはならない。メッシだろうがスアレスだろうが、シュートを放つためには、良い位置でボールを受けるなり、ドリブルで敵陣を突破するなりしなくてはならない。従って、彼らは試合中、常に積極的に貪欲にボールに触れようとするのだ。サッカーの場合、選手は頑張って攻撃の機会を作り出し、そのうえで機会をモノにしなくてはならないのである。一方で野球は少し毛色が違う。というのも、野球において攻撃の機会は自動的に与えられるからだ。どの選手にも1試合当たり3~4回の打順が回ってくる。機会は常に与えられており、それを生かせるかどうかは選手次第なのだ。そう考えると、どうも野球というのは「集中」のスポーツのように見える。攻撃のときは頭を攻撃に集中し、守備の時は守備に集中する。機会は与えられており、それを生かすことだけに集中する。この「集中」という原理が野球の軸にあるのだ。一方でサッカーは「分散」のスポーツであろう。攻撃の時は常に守備のことも片隅で考え、守備の時は攻撃も念頭に置く。機会を作ったうえで、それを生かさなければならない。これらは「分散」の原理の下で動いているといえるだろう。

 

 さて、野球が日本人に受けた理由だが、この「集中」の原理が大きく作用したものと思われる。ステレオタイプな意見だが、多くの場合、日本人は我が強いのを美徳としない。チャンスに向かって、積極的にボールへ向かうことは、サッカーを受容した時代の日本人にとって「我が強い」と映ったのではないだろうか。

 

 さらに言えば、ユニフォームの服装にも理由が隠れているように思われる。基本的に長ズボンで行われる野球に対し、サッカーは短パンで行われる。日本において、男性だろうが女性だろうが肌を多く見せることは「ふしだら」であった。少なくとも戦後まもない頃は。当時の日本人にとって、短パンでプレイするサッカーは「ふしだら」なスポーツにも見えたのだろう。その後、次第に個人主義の風潮が強まるのと時を同じくして、Jリーグが始まり、サッカーを好む日本人が増えた。これは「我が強いこと」や「短パンの着用」が個人主義の下で許容されるようになった流れなのかもしれない。